社会福祉法人こぶしの会 理事長 藤井正紀
2015年6月13日(土)は、午後から、こぶしの会後援会の総会が開催され、夕方からは、こッから家族会主催の「歓送迎懇親会」も行われ、20数人の家族会員、こッから職員、こぶしの会役員らが、「ここに」に集まり、懇親の会が開かれ、私も参加して楽しく語らっておりました。
そこへ桑山大祐氏のご逝去の知らせが飛び込んできました。私はびっくりして、西大寺の桑山氏のお宅に駆け付けました。桑山氏はやせ細られた顔でしたが眠ったような安らかなお姿でした。「苦しまれたのですか?」との問いに、「いや、昼前に、眠るように息を引き取りました」との奥さんのお答えにひと安心しました。「おじいちゃんは我慢強い人で、本当は苦しかったんだろうと思います」との娘さんの言葉が強く心に残り、近々にでも会いに来るつもりであった私には残念でしかたがありませんでした。しかし、通夜も告別式も、桑山先生の優しそうな笑顔の写真が参加者を励ましているようで、桑山先生のお人柄を慕った多くの人と一緒に、見送ることが出来ました。特に、こぶしの会や視力障害者の方々、盲学校の卒業生など多くの障害者の方やその関係者が参列し桑山先生にふさわしい告別式でした。最後の挨拶をされた息子さんの、「父を陰で支えてきた母と、人のために、特に苦しんでいる障害者のために生きてきた父を尊敬しています。私も父のような人生を送りたい」との言葉が全てを言い表しており、享年85歳の見事な人生でした。
私も桑山先生との関係の中から、二つ〜三つのエピソード明らかにし、桑山先生の人柄や想いをお伝えできればと思います。
その一つは、障害者との出会い、特に視力障害者との出会いでした。
私と桑山先生は齢が一回り離れ、障害児教育の大先輩であり、先生の全ての事が私の手本でありました。私が就職したのは県立登美学園でしたが、その当時、桑山先生は奈良市油阪町にあった、県立盲学校に勤めておられました。先生の紹介で、盲学校の若い教師や高等部の生徒とのつながりもできました。初めて「盲人野球」に誘ってもらったのが夏の日の夜の6時頃でした。運動場に行くとボールの中に鈴が入った球を足でけり一塁へ全速で走るものでしたが、視力障害者の運動神経のすばらしさにびっくりしたのを覚えています。
また当時私は橿原に住んでいましたが同じ橿原市に住んでおられた盲学校高等部の先生と友達になり、「魚釣りを教えてくれ」と頼まれ、桜井の倉橋ため池に行きました。彼は強い弱視でしたが手元に双眼鏡をおいてそれを必死で見て、うきの当たりを見るのですが、その日はあいにく風のある日で健常者の私でも見えにくいうきに集中する彼の姿に本当に感動し視力障害者への見方を大きく変える出来事でした。桑山先生は私には一言も「勉強してこい」とは言わず、そのような機会を当たり前のように与えてくれただけでしたが、私の人生を大きく変えたことには間違いありません。
「こぶし通信41号」 |